ニューヨーク

NY


ニューヨークに移動しました

20年前に住んでいた街ですが、ソーホー、チェルシー、トライベッカなど変化の激しい地域を除けば変わっていない感じです

一番大きく変わったのは物価ですね

旅行者にとっての物価は2、3倍になった感じがします


マンハッタンはゴミゴミしていますが、どこかに自分の居場所が見つけられるところで、不思議と落ち着きます

マンハッタンという土地も、ここに居る人も、エネルギーに溢れています

ニューヨークという街には本当に人を引きつけるものがあります

何か押し上げられるようなエネルギーがあって

ここで瞑想すると地球の丸さを感じます


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セドナのボルテックス

エアポートメサ


写真はからの眺望です

カテドラルロック、ベルロック、エアポートメサなどのボルテックスで瞑想してきました

そんなに大きな違いはないかなと思いましたが結構いい瞑想ができました

土地のエネルギー侮れず、です

その土地その土地と一体感を感じることは素晴らしいなと思います

また、セドナでは、雷雨や雹なども降ってきましたが、すぐに青空に戻り、むしろ暑さしのぎの雨も楽しめました

赤ん坊の機嫌のような天候もまた良しです


日常生活を離れ旅をしていると、目の前のことだけに集中できます

その意味では旅自体が瞑想のようなものだなと思います


そう思うと、人生という幻想も大きな旅ですから、確かに「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」だなと思います


どんな人生を送っても死ぬときは、その夢の跡にホッとしながら消えていけると確信します


カテドラルロック

9年ぶりのセドナです

写真はカテドラルロックカテドラルロック


9年前にカテドラルロックに行こうとしてクリークリバー沿いを歩いて行きましたが、途中スコールのような雨が降ってきたので引き返しました

今回はクリークリバーに出ようとしたところ、カテドラルロックに出てしまいました


セドナは町全体が赤土、緑、青空のコントラストが綺麗なところです

雑念が湧いてこない静けさがあります

エネルギーをビリビリ感じるというより、皮膚から入ってくるような感じがします

モニュメントバレー

モニュメント

十数年以上前に訪れたモニュメントバレー

たまたま朝日を見ることができました

iPadでは画像がうまく貼れなかったのでリンクでつないでみました

朝日のエネルギーをご覧になれるでしょうか?


変わらない景色と

変わった景色と

以前とは違って見える景色がありました

幸せと至福の違い(有色と無色)

(昨日の続きです)

すべての色は無色から現れ、現れた色彩は心の成熟によって無色に戻されていきます

つまり、色即是空です

人は、空即是色(色を生み)、色即是空(空に戻る)を行う変換器です


一つ一つの色は個性であり喜怒哀楽です

色の中に自分にとっての幸せの色を見つけることができるでしょう

一方で、あまり好きではない幸せと反対の色を避けることができないのも事実


しかし無色は喜怒哀楽を超えた至福です

つまり「ある」だけがある状態です


有色=人生
無色=悟り

と言い換えられます

有色と無色には同じ光の性質を持ちながら次元の違いがあります

これが幸せと至福の違いになります




光は引き算の法則

いま西海岸で朝の4時過ぎです
時差ぼけで早起きしました



(昨日の続きです)

人はもともと至福です

後から付け足した観念を取り除くと至福がずっと自分から離れずにいたことがわかります


太陽から生まれた光は無色で、その無色の光を分けていくと色が現れはじめます

例えば、無色の光から赤い光を取り出すと、スカイブルーの光が残ります

スカブルーから緑を取り出すと、青が残ります

こうやって何もない無色からとことから、赤、緑、青を取り出すことができます

そして3色の色合いの体験を楽しむことができます

赤、緑、青の体験に感謝し、その3つに光を束ねるとまた無色に戻ります

無から体験は現れ、体験は無にもどっていきます
それが一つのドラマです



さて今度は、無色の光を7つの虹に分けてみましょう

あなたの好きな順番で、赤、 オレンジ、 黄色、 緑、 水色、 青、 紫を取り出すことができます

不思議ですねもっと多くの色が現れます

色を楽しんでください

好きな色の輝きを

あまり好きではない色もありますか?

無という完璧な状態からは、必要な色が一つのセットとして現れます

好きではない色を無視すると、分割のゲームが完結されません

すべての色を経験すると、初めてそれら全てを集めて、無色の光に戻すことができます
七つの色は喜怒哀楽に例えることができます
無色は至福です


すべての体験を抜き去って一つにまとめた時に、無という至福が戻ってきます

これが光の引き算の法則です


今度は24色、36色、144色に挑戦してみますか?

あなたの思し召すままです


ちなみに、赤、緑、青の3色の絵の具を混ぜるとどうなると思いますか?
絵の具は物質ですから、足し算の法則が働きます
ですから3色の絵の具を混ぜると「」になってしまいます
光と物質は反対の結果につながります



人は光の子ですから、心のは引き算の法則を使わないと幸せにはなれません
しかし、長い間物質文明の中にいるとそれを忘れて、幸せになろうとして心に多くを溜め込んで、逆に心を暗く重い色に変えていってしまいます

イエスは「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」という意味と同じですね



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何かを引くと愛が残る

(昨日の続きです)

本当の相手に出会った時、自分は反応の起こらない沈黙の中にある

なんとも言えないせつなさがあります

日常生活の中で似たようなことが起こっています

相手が目の前にいない時に、相手がとても大切に感じる

そんなことはありませんか?

そんな感じをイメージすると昨日のジョーイの話は理解しやすくなるのではないでしょうか?

何かの不在が、エゴの不在に繋がる

何かを引くと愛が残る

ジョーイ・ロット

明日から7月27日まで留守にいたします


しばらく留守にする前に、今日skypeお茶会で中野温泉に入らせていただきました

体からじわじわとしみこむような非二元のエネルギーを頂戴するとともに、沈黙の効用についても面白い話を聞かせていただきました

その話を転用してよいかどうか不明なので、似たような話を紹介させていただきたいと思います


以下、ジョーイ・ロットの本を翻訳されたヒロさんのブログからの抜粋です

ちなみにヒロさんは発掘の天才だと思います


見守る者のまなざし」から

(身近な人たちの人生を変えるにはどうすればいいかという質問に対して)

本当の癒しの可能性というのは自分で何かをするとか誰かが何かをするということを通しては手に入らないと思っている

自分の能力とか誰かの能力のおかげで癒しが起こるわけじゃない

自分にできることは何もないってことがわかったときに癒しが起こる

何も知らないわけだから

自分は何かを知ってると思ってるかぎりは、苦しんでるようにしか見えない相手と本当の意味で会うことはない

自分は何も知らないし、何もできないということがわかったとき、はじめて他者に会うことができる

そのとき、まったくの無力さと弱さのなかで出会える

自分というまったくの無力さ、弱さの中で。これが、僕の見方では、本当の癒しが起こるただひとつの可能性だ


(以上抜粋)



ホ・オポノポノに通じるところがありますね

ジョーイ・ロットの表現をちょっと違う言い方にしてみます


自分のエゴを捨てて相手と接することが出来るかどうかそれが大切なポイント

なぜなら、自分の判断を使う限り、相手の中に見つけられるものは、映し出された自分自身のエゴでしかない

自分を落としきったとき、はじめて相手が見えてくる

相手がわかったときに本当の癒しが起こる(無言の中での共鳴として)



ナイナイ野郎(非二元様)はなんでも否定する形で説明することが多いですが、今回のジョーイの話ように肯定的に突っ込んでくる説明は人間味を感じて結構好きです


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私のリコネクション2

27年前のナイナイ野郎(非二元様)からのメッセージを役立てることなく、自我の人生は進んでいきました

社会人としてのプレッシャーもあり、周りには自分より優秀な人たちがいっぱいいましたので、目の前のことでアップアップになっていたと思います

約15年もの間、全くと言っていいほど、スイリチュアリティのかけらもない生活を送りました

現実の中でどうかっこをつけて生きていくかということに追われていました

それでも、この間、自分の中にあった将来の目標というものをほとんど達成してしていきました

こう言うと聞こえはいいですが、元からたいした目標を持っていなかったという方が適切かもしれません

一つ叶わなかった夢は、政治家になることです

これは本当の目標だったというよりは、思い返してみると、自分のコンプレックスの裏返しにすぎなかったんです


最期に目標としていたことに手がかかったあたりから、少しづつ、記憶力の激減、モチベーションの低下など異変が起こり始めます

それでもごまかしながら、なんとか最期の目標を達成してアメリカから日本に帰ってきたとき、自分の中にはもはややりたいことはありませんでした

そうすると何を思ったのか「もう一度アメリカに帰りたい」と思うようになりました

それは今から約12年前の話です

この思いを抱いた瞬間が、自分にとって”自我の解体作業”の始まりになったということに気づいたのはつい最近のことです

また、自分の人生の中で、「社会生活」と「精神的探究」という二足のワラジをはき始めた瞬間でもあります

二足のワラジ、ブログのタイトルの出どころです



私のスピリチュアルの道は、願望実現のために、心の世界を利用しようという打算から始まりました

以前の日記にも書きましたが、随分と有名なスピリチュアルリーダーにも山ほど会いましたし、様々なパワースポットにも出かけていきました

その後利益があってか、またアメリカに戻るという話が何度か出てきました

しかし不思議なことに最後の最後の段階でつぶれてしまうのです


最後の最後に出会った方はヒマラヤで修業をされた世界的に有名なマスターです

そして、この方に出合いその指導の下で修行を始めたのは3年前

しかし愕然とすることに、ここから私の精神的などん底が始まったのです

アメリカに行く話も吹き飛び、更にはいま所属する組織の中でも適切な名誉、昇進といった社会的欲求すら満たされなくなりました

この間、出来ることは自分を諦めていくことだけです

気づきと痛みは、お互い競い合うように共に大きくなっていきました

バシャールに会った際に、「人生が思いとは反対の方向に行く」と質問して、「コングラチュレーション(おめでとう)」と言われたのは2年前のことです


こんな状況からようやく抜け出したのは山にこもっての30日間の瞑想の後です

自分の中を、えも言われえぬ素晴らしい感覚やイメージ、煮えくり返るほどの憎しみ、悲しみ、体の痛み、そういったものがただ流れこんでは出ていくだけだったんです

自分は、喜びでも、悲しみでもなく、ただ流れ込んでくるものを見て居られる、その安堵した感覚こそが至福だったのです

流れ込んでくるイメージや感情、思考は、単なる偶然のようでもあり、宇宙と自分の綿密に仕込まれた共同作業でもあります

人間は、空が流れ込みそれを音色(波動)に変えていく一本の笛のようなものです(これもブログの名称の由来です)


ヒマラヤで修業をされたマスターに本当の意味で感謝できるようになったのは最近です

頂いたエネルギーが、もうのすごい勢いで自分を浄化したということに気づいたのです

願望達成という名のトンネルの入り口から探究をはじめ、非二元という名の出口から出たのです

このトンネルは、「自我の敗北、それこそが本当の勝利」と書いてあります

ちょっと分かりにくいかもしれませんね

それに、そんなことを言ったりすると誰も寄り付かなくなってしまいますね


(足し算タイプのスピ好きは読んではいけない)
にんじんをぶら下げる人は???だよ


約15年のスイリチュアリティのかけらもない生活にも感謝しています

これが私の沈黙に味わいと深みを加えたからです

「沈黙に味わいと深みがあるのか?」とナイナイ野郎が突っ込んできそうですが

今はそうなんです

クズネッツ級の長い気づきの過程を一段落させ、昔の感覚にリコネクションし始めています

このブログもそうですが、チャネリングの感覚が戻ってきました
(高校時代、倫社の内容をチャネリングで習いました)


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私のリコネクション1

最近、クズネッツの波ぐらい長い一つの気づきのサイクルが終わりました

感覚的に言うと「過去の清算と、源へのリコネクション」

そして新しいサイクルの始まり


ちなみに、私が最初の一瞥体験をしたのは今から27年前です

突然「全ては幻想だ。今お前は夢の中にいる。そしてこの夢の中には誰もいない」、「お前は五感を使ってこの世界を確かめるかもしれない。そして、音、視界、匂い、味覚、手触りを確認して上で、現実は確かにここにある言うかもしれない。しかし、実はお前の知らない感覚がある。お前の世界は限定されたものだ。」

このメッセージは心に響き、私はこれが正しいことを確信しました

ナイナイ野郎(非二元様)からのメッセージだったのです

一方で、当惑もしました

「もしこの世界が幻想というならそれをどうやって確かめる?自分の作り上げた幻想の中で、これはあなたの幻想だと教えてくれる人を探すのだろうか?そして僕はそれを信じるのだろうか?全部自分の夢だったとしたら、自分の夢の中の情報に何の意味がある?」

高校時代より、思想や禅には興味があって、関係する本を読んでいましたが、当時こんなことを書いている本には出会ったことがありませんでした

この経験自身はインパクトの強いものでした

しかしそこから探究をすることはありませんでした

夢の中で夢を見破る方法が見当たらなかったからです

もう少し正直に言うと、幻想を捨てる勇気がなかったからです

そして、皮肉なことに、ここから約15年間、もっと自我を強くする方向に人生は流れていきました


もし、27年前に、この世界は幻想だという言葉をただそのまま信じ、言葉の通りに生きていたら、どうなっただろう?

こんな”もしも”は確かめようもありませんが、それはそれで荊の道であったかもしれないと思います

当時は今と違って、こんな話をする人は皆無でしたから、理解されない苦しみを味わったことと思います

その意味では自分は、ちょうどよく生きたのかもしれません

こんな中途半端さを思う時、「お前はお前でちょうどいい」という良寛の言葉が思い出されます


つづきます


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中野温泉

いま世間?ではナイナイ野郎(非二元様)の話が主流化しています

こういう理解が市民権を得ているのは素晴らしいと思います

一方で、正しくメッセージが伝えられているかどうか???でもあります


常々、非二元ナイナイ野郎とは手品の種明かしのようなものだと思っていました

手品がうまくできず困っていた者にとっては、救いの朗報となることもあります

しかし一方で、手品師としての人生が続くことも事実です


ナイナイ野郎のメッセージは、不意の一撃としてはとても有効です

しかし、幻想の中にいようが、幻想から覚めていようが、人生を生きていくことに違いはありません

もちろん、生き方の質が変わることは大きな違いです


一撃にとどまらず、アジャシャンティ、ティモシー・フリークのように、ナイナイ野郎を体得したうえで人生をとらえたり、相手の人生の中まで下りていって救いの手を差し伸べるやり方はとても大切だと思います

もちろん日本にも素晴らしい方がいらっしゃいます


鳥取に癒しに効く中野温泉があります

中野真作さんという方が経営されています

ご本人からの源泉かけ流しのため一軒だけです

私自身、長期間の山籠もりの瞑想の後で、お世話になりました

skeypeでの入浴も受け付けています(着衣のままで大丈夫です)

中野さんは訪問者をありのままを受け止めてくれます

また、入浴セッションの中で、沈黙の時間と、そこで起こる共鳴を大切にしています

言葉を超えた共振の中でより多くの変容が起こります(もちろん言葉もその助けになりますが)

そして静かに癒されていきます

癒し以外の効能に気が付くのは数日後です

ですから、その場で気づきを得ようと焦らないのが入浴のコツです

最近、東京、大阪でも再開されたようです

このブログでいっている引き算の法則がピンとくる方はぜひ受けてみてください


次回のブログに書こうと思いますが、25年以上前、私も中野さんとほとんど同じころ一瞥の体験をしました

中野さんはそれ以降、一瞥に導かれた道を進まれました

一方、私は人ごみに押し流されるように社会人としての道を進みました

もしあの時、一瞥に確信を持っていたなら、中野さんのような人生を歩いたのかな?とふと思います

最近、人生の一つの気づきのサイクルが終わりましたが、そんな中、中野さんに出会えたのは、私にとって一つの奇跡だったかもしれないと思っています


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Two Hats -気づく、ただそれだけ(後編 ナイナイ野郎の一撃)- 

7月2日の記事の結末は、完璧なまでのちゃぶ台返し!

非二元には取り付く島がない。話し合おうという気持ちもない!情状酌量というやさしい心がない!まったくない!

いやそもそも非二元には心が存在していないのか、、、

クッソ、非二元の世界には自分(マインド)の入り込む余地がない!

いくら非二元の門を叩こうとも、その門が開らかれることはない!

仕舞いには門番から「あなたはいない!」とまで言われる

「マインド様を馬鹿にするなよナイナイ野郎!」


肩を落として、とぼとぼと家路につくマインドの目に夕焼けの光が目にしみる

そのとき、ため息とともにポツリと一言、「わかっくれよー。ちょっとでいいんだ」

すると突然響く声、

(非二元)「わかってあげたら、あなたは消えるよ。それでもわかってほしい?」

(マその1)「えっ、わかっちゃったら?消える?いまここで? 今すぐだとちょっと困るなー。まだ夕飯済ませてないし、それからいくつか果たさなければいけない約束があるし。消してほしいけど、、、いまはちょっと、、、3日後の同じ時間にここに来ます」(彼が戻ってくることはなかった。。。。)

(マその2)「消えても結構です。何が消えるのかを私は見たい」



((マその1)の人はここから先を読んではいけない

非二元(以下、親しみをこめて「ナイナイ野郎」、でも99,もしくはNN様とは何の関係もありません)は、妥協してくれません

ナイナイ野郎の妥協のなさは、禅の警策(喝を入れる棒)のような威力があります

手を変え品を変え質問しても、「ピッし」とすべては否定されます

一枚一枚はがされ、段々と隠していた自我が丸裸にされていきます

段々と裸にされていくと、今度は自分でも何が問題だったかわからなくなって行きます

問題そのものよりも、問題に対する執着の方が強かったのだと気が付きます

そして、問題のちっぽけさを感じたときに、ナイナイ野郎との質疑応答は感謝で終わります

途中腹も立つこともありますが、でも最後に残るのは、大自然に出会ったような爽やかさです

悔しいけどナイナイ野郎には一本取られた、そんな感じです


大自然、この地球上には870万種以上の生物が存在します

これだけの生物が独立して、かつ共存を意識することなく存在していながら、一つの地球というシステムとして成り立っています

いったいどれほどの調和の作用が起こっているのでしょうか?! まさにミラクルです

人は大自然に出会った時その雄大さかつ美しいな姿に感動し、ちっぽけな自分に気づき、リフレッシュされていきます

大自然も100%あなたを受け入れていますが、それでも、決してあなたのマインドを理解することはありません

でも、その雄大さを知った時、それでいいのだと思います

なぜならマインドなどちっぽけだと思えるからです


そうです

気づかれたと思いますが、ナイナイ野郎=大自然なのです

自然には
 火山噴火、地震、台風、洪水、何が起ころうと良いも悪いもなくただ変化して行きます
 起きている事がただ起きているだけです
 そこには自分というエゴはありません
 時間は存在しません
 あるのは今だけです(自然の歴史を知るのは、時間の感覚を持っている人間だけです)
 そしていつもあなたを受け入れています

人だけが共存を訴えますが、人だけが自然の調和を崩しているのは事実です

人はまだ大自然の完璧さと調和していません

人だけが内なる世界と外の世界の不調和を抱えているからです

内なる世界に入り込み、間違って握りしめたマインドを手放し、消していくその作業が不可欠になる日が、誰にでもいつの日かやってきます

(ここまで読んで、「それが?」という方、期待にこたえられなくて残念・ゴメンorg 続きは読まなくてOK!

後半に入る前に、お断りですがここで話している問題とは、生きることを苦しくするような解決の難しい問題のことです
単純に解決できる日常の問題のことではありません(そういうことは放置しないでちゃっちゃと片付けてください

なぜ、「気づく」それだけで解決になるのか?

どうして、事実を事実と認め、そこに放置するだけでいいのか?

「気づいたなら対策をとる」、これが人としてのそして社会の習い性です

でも、気づいただけで何もしないというのは、人にとっては逆に苦痛なことだと、まず申し上げておきたいと思います

実際のところ、「人は苦痛から目をそらすために何かをし続けている」のがほとんどなのです(自身の実体験に基づく)

「気づくだけ」というのは「何もしないことによって、逆に問題/自我の本質を見る」ということです


「気づくそれだけ」というのは、私自身10年以上にわたる探求を終えた最後の方法です(これからも探究自身は続くかもしれません。なぜならそれが楽しいから)

これはブッタが見つけた瞑想方法であると言われています

ナイナイ野郎のジョーイ・ロットもどうやらこの方法をやったようです


まず、問題に対する向き合い方です

思考は問題を正しく理解していません

思考が出来るのは傷口の上に絆創膏を、何枚も何枚も張り重ねていくだけです

これは風邪薬と同じです。カゼ薬は症状をごまかすだけで、カゼそのものは直せません

アインシュタインは、「いかなる問題も、その問題を生み出した時と同じ意識のレベルでは、その問題は決して解決できない」といっています

マハラジは「自我を自分の中ではなく、自分に対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上部に押し重ねられたようなものとして見る時だけ、それを越えることが可能だ」

科学者も悟りのマスターも同じ真理に到達しています

事実を事実と認めるが、違う次元からとらえてみる

問題に対して対策を取らないことで、とりあえず自分を無防備にするということになります


次は、無防備になった時に起こる様々な肉体的な感覚と、思考を見るということです

良い悪いをジャッジせずに起こる/出てくるに任せます

これが問題と違う次元にいるということになります

親が子を見守るような姿勢です


子供が何重にも重ねあわせた絆創膏をはがしていくと、そこには傷はなかったということを発見するでしょう。あったのは、傷ついたという思い込みだけです

マハラジは「マインドによって作り出されたものは、それが真実だと思う限りそれがマインドを支配する。しかし疑われた瞬間それらは消え去る」「偽物は発見された時に消える」といっています

闇は光を当てることによって消えていきます

大切なプロセスです

足し算の法則で解決しようとするのは絆創膏の重ね合わせです

引き算の法則での解決は、一つ一つ重ねあわされたマインドという絆創膏を消していくことです


これが「気づくだけ」ということです

問題を解決しなくても幸せになれる、もしくは問題はなかったということに気づくと、内なる世界と外の世界が調和していきます

これが正-反-合の最後の段階の”合”です

このあと、探求者は消えても探求は続きます

それはサプライズでありミラクルです


追記1:ナイナイ野郎は、一つのマインド(マその2)が消えていったのを静かに見送った。(マその2)に愛を送りながら、その喜怒哀楽をアカシックレコードに記録した

追記2:待っているナイナイ野郎 「ふぁー(マその1)の記録は来世に持ち越しかなー」


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Two Hats -気づく、ただそれだけ(前編)- 

気づきというのはとても繊細です

その繊細さは言葉では伝えられませんが

そっと、時には無言で、交流したときにエネルギーのようなものとして伝わり、同調して行くものです

これをするのがサットサンです

言葉を拾うのではなく、同調させることが大切です

気づきは光の法則、つまり引き算の法則だからです


(正-反-合という人生のサイクル)

(正:誕生)

生まれたときは無垢であり、ワンネスそのものです(非二元と言い換えられます)

そこから旅は始まります

(反:外の世界を学ぶ)

誕生のあと、赤ちゃんは五感があること、そして外の世界があることに気づきはじめます

だんだんこの世界には、さまざまな物理的、化学的、生物的、社会的ルール(生まれる前には存在しなかった因果関係)があることに気づきます

そのルールを知ること、身に着けることは、はじめはとても違和感のあることです

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」「それはうそだ」「そうじゃないもっとこんな風」「知らないのは大人の方」(私の実体験)

しかし、反抗をしても得るものはありません(again 私の実体験)

人の五感の感覚を通して感じた、”生存への危機感”は、強迫観念を伴い、ルールの習得を迫ります

そうすると、もだんだん”生まれてきた源”に対するコネクション薄れて、生まれる前の世界を忘れて行きます

このときに否応なく押し付けられたルールは、後に成長してから、社会に対する適応問題として再浮上することになります。それでも、しばらくの間はそのルールを使って、人生を楽しむ、もしくは、やり過ごして行くことが出来ます

成長するに従い、そのルールを使うことで快適さを生み出せることも知ってきます

勉強、スポーツ、趣味、娯楽、ライフスタイル、飲食、ビジネス、交流、etc

何らかの達成をして行きながら、”達成した物事=自分”というフレームをはめて行きます

もちろん達成されないこともいろいろ出てくるでしょうが、その場合は失敗=自分と定義してしまいます

また「達成の不満」ということも起こってきます

つまり、「達成されたのに満足は長続きしなかった」「より多く、もしくは高いところのものを必要とするようになった」「達成して得られるものが、思っているものと違った」などです

この段階での特徴は、外の世界に対して行動し、外の世界を変えようとしているということです

そうこうしていると、願望達成の近道を見つける人がいます

救世主ジニーの発見です

アラジンのランプの魔人、ジニーは、人の潜在意識を意味しています

潜在意志の力を利用する方法は成功哲学や、引き寄せの法則で、多くの人に支持されています

イメージや願い事を潜在意識に上手に刷り込むととで願望が達成されるといいます

実際のところ、どうして?またどうやって?潜在意識がその願いを達成するのかは、説明及び理解はされていません

しかし、非科学の部分があっても、理由はわからなくても自分に利益だけをもたらしてくれるなら受け入れます

そして多くの人は引き寄せの法則で成功したと報告しています

私自身、成功哲学は30年以上昔ですが、ナポレオンヒルのころにやっていました


(ちゃぶ台返しが迷惑な人はここから先は読んではいけない)

(合:内なる世界に気づく)

実際のところ、引き寄せの法則がうまくいくとは限りません

方法論はしっかりと勉強したのに

そうすると、方法はわかっているんだから、”ジニー(潜在意識)”をうまく働かせていないのだと思いまじめます

そのため、いろいろなヒーラーにあったり、エネルギーワークーをしたりします

このあたりから段々と、達成派(何が何でも達成する)と幸福派(達成の目的は幸せになることだったと思い出す)に分かれてきます

しかし、そんな中、ちゃぶ台をひっくり返すメッセージに出くわします。目標どころか自分の存在そのものを吹き飛ばしてしまいます

 人生は幻想である
 良いも悪いもない
 起きている事がただ起きている
 それを自分がやっていると解釈しているだけ(行動が起こった後に、脳ミソが自分がやったと後付している)
 しかも、本当はそれをやていると思っている自分さえいない


完璧なまでのちゃぶ台返し!

この非二元の理解を、受け入れるか、見なかったことにして今までどおりのやり方を通すか、二つに一つです

最近、非二元の意見は段々と市民権を得ています

非二元から見ると成功法則はどうなるでしょう?

必ずしも一つの答えではないようです

トニー・パーソンズ、ジョーイ・ロットのような、宗教的な背景を持たない最近の非二元論者は、「そもそも成功した当事者などいない」、「単なるストーリー」といいます

立て板に水ですね。「ない」ものは「ない」という感じです

しかし、マハラジは必ずしも否定はしません。彼は強く思うことによってそれは起こる。しかしすべては幻想である。また掴み取った喜びは悲しみという対価で締めくくる、という趣旨のことを言っています

夢のコントロールは可能だ、けれどもそれにどんな意味があるだろう?しかも、築きあげた夢(カルマ)は、必ず解体作業が伴う、という意味です

今日の話は皆さんにとってはおさらいのような内容になったかもしれませんが、長くなりましたので続きはまた明日でも


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Two Hats -深まる「気づき」と広がる「驚き」- 

ここを訪問していただき頂きありがとうございます
ところで、ここを訪問していただく方には猫のブログを書いておられる方が多くいらっしゃいます
飼ってはいませんが私も大の猫好きです。もしかするとブログの文字からマタタビの匂いがもれてますか?
王様のような振舞と、したり顔(悟り顔)、と思っていると非常に愛くるしいという。その上、瞑想?(お昼ね)大好き。まさに「宇宙のパラドックス」の一つです
だからでしょうか、古代エジプト人は猫を神として崇拝していました

(いつもの話に戻ります)
内なる世界を観照する

これが悟りにつながる気づきをもたらします


ところで、「気づき」という言葉ですが

辞書には「これまで見落としていたことや問題点を知ること」とあります

今まで知っていた物事に対して、違う側面を認識する、もしくはより深いところで理解をするということですね

言い換えるなら、「気づきとは深まる行為」です

気づきが起こると、普段何気なく見ていた景色がとてもきれいに見えるとか、すでに持っていたものの価値を見直すとか、そんなことが起こると思います

味わいが深まるような感じです

昔の理解も間違ってはいないけど、今のこの瞬間のこの感覚はそれとは別」という感じで

しかし、ちょっとした見方の違いで理解、価値観が変わる、そんな「気づき」は他の人から見るとわかりにくい行為です

気づきの経験を人に話してたことありませんか?

そのとき、「それがどうしたの?」的な冷たい反応をされませんでした?

自分の高揚感に対して、さめきている相手を見ると、せっかくの気づきが台無しになった気がしますonz

でもしかたありません、他人には自分の内面で起こった気づきの繊細さが伝わらないんです

なぜなら他人は、その人の理解で物事を見ているからです

他人は(猫のように?)本当に違う世界に生きています

同じような経験をしていない限り、わからなくて当然といったほうが良いでしょう


では「驚き」という言葉と比較してみましょう

驚きとは、新しいものを知ったときのショックです

「えーそうなの、知らなかったー」的な

同じく言い換えるなら、「驚きとは広がる行為」です

ですから、広がった部分の知識は、他人に説明しやすく、また共有しやすいところがあります


知らなかったことを伝えるのは簡単ですが、以前とは違った受け止め方、反応をするようになったというような変化、変容はとても重要にもかかわらず、とても伝えにくいことです

気づきはとても繊細です

「なんか違う」としかいえないような

また、深く深く入っても、広く広くは拡散しない

それゆえ、悟りへの道も説明したりされたり、そしてそれを共有しにくくなります

しかし、積み重ねられた気づきは、不動の姿をとって現れ始めます

次回、「なぜ気づくだけでいいのか?」につづきます


(ちゃぶ台返しが迷惑な人はここから先は読んではいけない)

せっかく、「気づき」と「驚き」の違いを説明したところですが

お互い極めれば通じるということも書いておきたいと思います

例えば、不動に至った「気づき」、もしくは熟成された「気づき」は、「驚き」にも通じます

深く深く掘り下げられた気づききは、まったく予期しない別なところから現れ、結果的に広がりを持った驚きに変わります

違う場所に出くわす驚きが起こったとき、一つの「気づき」のプロセスは完結します

量子力学ではブラックホールに吸い込まれた素粒子は、別な次元(パラレルワールド)のホワイトホールから放出されると考えています

それと同じですね


何か感じることがありましたでしょうか?もし何か感じることが出来たらお互いに大成功です。それを言葉にせずにそのままにしておいてください。言葉や理解、そして変化は後から勝手にあなたを追いかけてきます


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