Two Hats -気づき- 

-今日の日記は6月23日の記事の続きで書いています-

「目からうろこが落ちる」これはまさしく気づきの瞬間です

そんな経験を「ウロコポーロ」と呼んでいる人がいました

うまい!座布団一枚

そうそんなウロコポーロによって人生に気づきと変化が与えていきます

マルコポーロよろしく気づきを求め、パワースポットへ訪問したり、ワークショップに参加したり、インターネットの中で検索の旅を続けます

まさしく私もその一人でした

直接会った世界的に有名な人だけで

 アモラ・クゥアンイン
 バシャール
 メルセデギック・ドランバロ
 チベット仏教のNO2(ごめんなさい名前忘れました)
 ヨガの世界的マスター(匿名です)

訪れたパワースポット数知れず

そこにはいっぱいの”気づき”がありました

一方で、こうやってウロコポーロを求めるマルコポーロになると、感動への執着と強迫観念が生まれるのもまた事実です


(気づきの感動を探求している人はここから先は読んではいけない)

しかし、考えてみると感動を求めているのはなぜでしょうか?誰でしょうか?

気づきたい理由は、「今から逃れたい」「この現実を嘘だと言って欲し」ということかもしれません

そしてそれを、必要としている人は、今を別なものにすり替えてほしいエゴだったりします

(ハイ私はそうでした。)

もしもこういう気付きを求めるなら、悟りに近づいているようで、近づいていないかもしれません

6月23日の日記の中で書いた「気づいている人」とは、ウロコポーロや一瞥体験のことを指しているわけではありません(もちろんウロコポーロや一瞥体験も貴重な経験ですが)

これは、”日常の自分の状態に気付いている人”のことです

大きな体験ではなく、日常の所作こそが悟りにつながっているのです

「今は○○を楽しんでいる」「○○を嫌がっている」「○○に起こっている」「○○に我慢している」「○○を楽しみにしている」など自我の反応に気が付いているということです

簡単でしょ?

常にこれが出来れば、悟りはすでにあなたのものです

でも実は結構難しいですよ!

怒り心頭の時に、「私は怒っている」なんて観察しようものなら、「邪魔すんな―」て自我にどやしつけられますから

怒ることは自我にとってエゴを死守するためにやってますから、必死なんです

それでも、自我に怒られながら、観察を続けていくとだんだんわかってきます

思考も感情も勝手にやってきては勝手に去っていく泡沫のようなものだったと!!!

それは自分と呼ぶようなものではなかったんです!




何か感じることがありましたでしょうか?もし何か感じることが出来たらお互いに大成功です。それを言葉にせずにそのままにしておいてください。言葉や理解、そして変化は後から勝手にあなたを追いかけてきます


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Two Hats -悟り=清貧なのか?(後編) 手放す恐怖- 

いよいよ本題の、「悟り=清貧」なのかどうかについて書いてみようと思います

悟りを求める時に、「悟り=清貧」という恐れに出会うことがないとは言えないかもしれません

もう少し正直に言うと、そういう時期はあると思います

”気づき”が進んでいくと、自分が思っている以上に手放していくことが必要になるからです

その時、恐怖が襲ってきてます

「手放して大丈夫だろうか?そして、いったいどこまで落ちていくんだろう」と怖気づきます

自我を落とすことの恐怖を感じます

自我の最後の抵抗といっても良いかもしれません

引き返したくなります

崖から一歩外に踏み出すような気持ちです

でも踏みさしてみると、ガラスの床があって大丈夫だった見たいな。。。


怖くても、”後戻りできない道”です

自分で進めなくても、手放すための出来事がただ起こってくるからです


(どうせ後戻りできない道ですから、ここまで来たら続きも読んでみましょう)


気づきのプロセスが一巡する最後の段階が一番つらいと言えるかもしれません

しかし、自我がを作り出そうとする立場から、自我が人生に従う立場になると、大逆転が起こります

「フォレスト・ガンプ」という映画を見たことがありますか?

ガンプはアラバマ州の方言で、「うすのろ」「間抜け」「愚か者」の意だそうです

ガンプは知能指数の低い少年で、高校になるまでいじめの対象になります

しかし、彼はいつも目の前のことに対して100%正直であり、全力で現実に尽くす人でした

成長するにつれその純粋さは、数々の成功、名誉、富を引き付けていきます

このマジックの理由は、彼が全てを受け入れる「内なる世界」と「外との世界」に差のない人、つまり悟った人だったからといえます

それゆえ、フォレスト・ガンプはすべてを祝福として具現化できたのです


悟った人=清貧

悟った人=あらゆるものを受け取ることのできる人


が本当です

色即是空、空即是色を
この場に合わせていえば「自我を天に帰し、そして全てを天から与えられなさ


自我が一歩引き下がり、”人生”を運転席に座らせる勇気があれば大丈夫です



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Two Hats -悟り=清貧なのか?(前篇)- 

悟りのための努力は、引き算の法則で、マインドを落とします

マインドとは、例えば渇望、執着、恐れ、悲しみ、憎しみなどです

また、それにつながるような思考も落として行きます

例えば、「挨拶をしたのに、相手が挨拶をしなかった」という経験をすることがあるとします

このとき、悲しいという感覚が起こるかもしれません

そのとき、それに気づくようにします。胸の辺りや、おなかが締め付けられるような感覚とか

また、その悲しみを引き起こす思考にも気づいてみます。

例えば、「挨拶が返ってこないのは人に受け入れられないからだ」とか、「こちらがした挨拶と、同じくらい丁寧に挨拶は交わされるべきだ」という思考を自分が握り締めているかもしれません

そんな思考によって痛みがもたらされていますが、その考えは本当にあたっているのでしょうか?

他人の思考、価値観は、往々にして自分が思っているものとまったく違うものです

間違っている可能性の高い思い込みで行動し人生を混乱させるよりも、その思い込みをはずすほうがもっと簡単に人生を豊かにします

他人を変えようと意地を張らずに、自分の方をより幸せな方向に変えてしまうのです

そのほうがよっぽど早いですから

気づくことで悲しみを起こす原因となった思考や感情をはずして行きます

でも、何か改善をする必要はありません

改善はエゴの作業です。エゴは難しく考えたがります

また、エゴが何かをする限り、その問題/次元から脱出することが出来ません

次に、何かに対する欲望も同じように落として行きます

お金がほしい、家がほしい、名誉がほしい、出世したい、パートナーがほしい、etc

そのんだ望んでいる状況自体が悪いわけではありませんが、欲望の裏側にはコンプレックスや憎しみ、苦しみなどの感情が隠れており、それらのネガティブなことがらも増幅してしまいます。

ここで大きな問題が発生します

ここまで読むと、多くの方は、「悟るとは清貧になるということか?そんなのはごめんだ、スピリチュアルなことも興味はあるが、うまくバランスさせて最低限、○○の願いだけは叶うようにガンバロウ」と思うのではないでしょうか?

「ネガティブなことはなくなってもいいけど、その分ポジティブなことは増やしたい!」

この思考のささやきにより、悟りを目指すよりは、「高次元のエネルギーを使いながら、成功法則あたりで折り合いをつる」という選択肢を選ぶことになってしまうわけです

もちろんその選択に良いも悪いもありません


(成功を求めている人は、ここから先は読んではいけない)

成功法則(個人的な願望達成)は”何かを得る”ための法則です

得るためですから、ここには足し算の法則が働いています


成長期に当てはまる法則(因果)と言っていいと思います

誰しもこういう時期を通りますし、何度も繰り返すかもしれません

しかし、成功が永遠であり続けはしません

それには大きく2つの理由があります

1)成功をしたいという動機、そこにすでに崩壊の芽が内在している
2)成功を築いていく過程の中で、負のカルマを増やしてしまう

1番目の問題ですが、例えば、悔しさをバネに何かの成功を得たとします。でも、本当に必要だったのは、成功ではなく悔しさをなくすことだったのです。心の傷をごまかすための成功ではなかったということです。成功自体が悪いわけではありませんが、結局、達成された成長に満足できず、さまよい続けることになります

2番目ですが、成功する過程、成長に満足出来ない状態の中で、新たな負のカルマを作ってしまうことです。自己中心的な行為が周りにも自分にも負担になっていくということです

このようなことを繰り返し年を重ねていきます

成功体験や成功自体に良いも悪いもはありません

体験を繰り返す中で、喜怒哀楽を味わいしつくした時に、人生の向こう側が見えてきます

微笑ましいことに、大我から見れば、成功法則により築き上げたものは、手放すことを学ためのもの、つまり悟りに向かうための土台作りと言えます

得ることによって気づき、そしてそれを失うことによってまた気づく、人生はそういう仕組みです

自分という意識を強くする喜び、そして自分を消していく喜びを、次元の螺旋階段を登りながら繰り返しています




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Two Hats -悟りという言葉- 

精神世界でつかわれる言葉の意味について少しづつ書いてみたいと思います

まずは、「悟り」です

悟りとは何か、わかっているつもりですが、なかなか説明できないことばです

なかに偶然、すべては一つだ、他人は自分だった、すべては愛だ、という経験をすることがあります

このとき、誰もが悟ったと確信してしまいます

しかし、この状態が終わると元に戻ってしまうので、悟ったというより、一瞥経験をしたというほうが正確です

それでも、一瞥経験は悟りの確信、その後の思考の形成(解体)と行動に大きな意味があります

ご存知のとおり、悟りとは「差とり」とも呼ばれます

何の差をとるかというところが重要です

これは「内なる世界(思考、感情)」と「外の世界(五感で感じる世界)」の差をとるということです

このような「内なる世界」と「外の世界」が調和している人を悟った人といいます

内と外の世界が調和すると、行為者としての人格を感じません。人格がなくなり行為だけが残ります

ほんの一瞬であれば、誰でも”差のない”状態になることがあります

例えば、願い事が叶った瞬間、我慢したあとトイレですっきりとした瞬間(冗談ではなく)、熟睡しているとき、etc

思い出してみてください。こんなとき、自分が消えて、世界が自分の味方になったような喜びを感じたり、開放感だけを感じてませんか?

もちろん、このような経験だけでは悟った人とは言われません

しかし、”差のない状態”がどのような状態かはわかると思います

悟った状態とは、差のない状態なので、見つけにくい(意識しにくい)状態です

その反対に、悟っていない状態というのは良くわかります


そのため、多くの修行では「あれでもないこれでもない」と心に浮んだものをすべて否定する形で修行を進めます

(意識が出来るものは”差”に他ならないからです)

つまり、悟るために、内面にある”差の原因”を探し、取り除く作業をコツコツとするのです(心の闇に光を当て闇を滅ぼす)

「差のない状態」では人格を意識せず、また新しいカルマを作ることもありません

この意味で本当に悟った人とは、世界にほんの一握りしかいないかもしれません

ただ、「気づいている人」にはなることができます


(非二元にコチコチの人は、ここから先は、読んではいけない)

最近のブロガーのなかに、悟りは求めても得られないという論調があります

しかし、本当でしょうか?

そのような意見の背景にあるのは、
 
 1)一瞥体験は突然そして偶然やってきた
 2)悟りたいという思いはエゴの一つであり、エゴがエゴのない悟った状況にいたらせることが無理
 3)神(宇宙、存在、無)は完璧であり、起こることはすべては決まっている

面白いのは、「悟りは求めても得られない」と主張するにもかかわらず、そのような方々は一生懸命ブログや書籍で情報を発信したりしていることです

しかし、結論から言えば、一瞥もエゴを捨てることも、その到達の99%まではエゴによる努力が必要です

エジソンは「天才は1%のひらめきと99%の努力」といいました(ひらめきと努力のどっちが大事なのかは議論があるようですが)

最後の壁一枚を壊すのに、自分の想像を超えた、恩寵によるドラマチックな一蹴が必要なだけです

準備をしていない人は、天の計らいである”一蹴”は気がつきません

あなたの努力は必ずあなたを悟りに導きます

非二元の偉大な師とされるマハルシにしろマハラジにしろ、「私は在る」という感覚を見守り、真我を見出しなさい、といっています (これが”差”をとるために、光を当てる行為になるんです


蛇足
非二元を語る人の中に、「すべては決まっている、努力しようと思うことすらも事前に決まっているんだ」という方がいます。そうかもしれません。でもその運命は自分で読むことも確かめることも出来ないものです。それならば、もしも決まっていたとしても、目の前に現れる感覚、状況を大切にして生きていくことが大切だと思います

もう一つ大事な原則があります。それは「これもまた過ぎ去る(すべてが変わって行く)」です

すべて決まっているその内容すら変わって行く、これが宇宙のバラドックスだと思います


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Two Hats -はじめに(2) 比較という鏡 (例:足算の法則と引算の法則)- 

比較は自分を点検するときに役に立ちます

もっとも頻繁に行なっている比較は、「鏡を見る行為」です

人が鏡を見るとき、単にそこに映るものを見ているわけではありません

自分のイメージと、鏡に映る姿とを比較しています

2つは調和をしているかもしれませんし、調和していないかもしれません

調和をしていなければ、外見もしくは内面に何らかの解決を迫られている様な違和感を感じます


人生への取り組みで比較できる考え方があります、例えば

 自我と大我
 成功哲学(自助)と非二元(サレンダー)
 サルの道とネコの道
 登山型と冒険型
 足し算の法則と引き算の法則
 形成の段階と解体の段階 などです

足し算の法則と引き算の法則はわかりにくいかもしれませんので、特徴をちょっとだけ補足します
この2つには次のような違いがあります

(1)物質と思考の豊かさは足し算の法則が当てはまります。集めれば集めるほど増えていきます
(2)光と心の豊かさは引き算の法則が当てはまります。配れば配るほど、軽くすれば軽くするほど、明るく幸せになります。そして無(無色)に近づけば近づくほどより完璧になります


物質と心はルールが正反対ですから、「物質を集めても、心の満足とは一致しない可能性が高い」ということがわかります

よく言われるように、「お金持ち=幸せとは限らない」ということです

蛇足ですが、男女の幸せや価値観の違いも、この2つのルールの違から出てくることが多いのですが、それに気づいている人は少ないかもしれません(こういう観点でカウンセリングをきちんとやると、男女のお付き合いの問題も減っていくと思います)。


このように、二つの相反する視点で見てみると、いままでの固定観念が揺り動かされ、それを外すきっかけとなります

人生にあたらしい展開が生まれ、より豊かになります

このブログ(Two Hats編)ではそんな揺さぶりを使って、皆さんが幸せになっていくお手伝いしたいと思っています




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Two Hats -はじめに (1)-

気がつくと、もう9ヶ月も放置してしまった

その間ずいぶんと長いあいだ座っていましたーーー(瞑想です)

備忘録のようなものだから誰も困ってないんないんだけど。。。(独り言というのもさびしい気はするけど。。。)


それはさておき

最近、スピリチュアルといわれるものにも、ホントいろんな内容があると思います

右の横綱を成功哲学とすれば、左の横綱はアドヴァイタ(ノンヂュアリティ、非二元論)ですね

アドヴァイタを多くの人が話し始めるなんて、どう見ても異常ですけど(いい意味でだけど)

ただ、どちらか一方だけを、ぶれずに主張し、実践し続ける人はいないですね(少なくとも表には出てきていない)

実際のところ、成功哲学という”わらじ”を履いたり、非二元論という”わらじ”を履いたり、うまい具合に切り替えています

だって現実の世界で生きるのはそう単純なことではないから、、、“二足のわらじを履く”ことになるのはしょうがないよね


ここで(ちょっと唐突だけど)、二足のわらじを履くというのを、英訳してみると Wearing two hatsとなります

  靴じゃなくて、2つの帽子か。
  西洋では頭のほうに意識が行っちゃうのね(この東西の違いはなんとなく納得)

ここで英訳のWearing two hatsを日本語に戻してみます。世紀の誤訳?で

Wearing two hats→「ふたつの”ハッと”が頭に浮かぶ」


つまり

「二足のわらじを履く」

は英語で

「Wearing two hats」

となって、それを芸術的センス?で日本語に戻すと

「ふたつの”ハッと”が頭に浮かぶ」

になっちゃう


で何が言いの?

つ、つまりね、成功願望であれ非二元であれ、どちらも大きなハッと(気づき)がある、ということが言葉の上でも証明されている

なので、これからこのブログで大きく違う二つの立場を比べながら、話をしてみよう、、、、という提案、、、、

そうです、今日の日記のタイトルというかこのブログの趣旨の説明だったんです(汗)

つづく

カウンセリング

心というものは人とのふれあいによって大きく変わります

これまで、修行は自分ひとりで黙々と出来るのではないかとずいぶんと長い間思っていました

ですから、正直なところ、カウンセリングというものを少々見くびってました

愚かにも「人の意見を聞いてもしょうがない」と決めつけていましたから


でも、人と人とが接するとき、言葉を越えた何かが起こるということがわかりました。いまさらだけど

話す側は、打ち明けることでいままで避けていた心の曇りに光を当てることができる

聞く側は、ジャッジをせずに耳を傾けることで深いところで変容をおこしていく

その静寂の中で会話以上に大切な、何かが起こるのです


瞑想も同じです

多くの人が集まって瞑想すると、一人でする瞑想とはまったく違うものになります

静寂の中でお互いが影響しあうから(そのつもりはないのに)


ここで提案しているカウンセリングは、ホオポノポノに近いスピリチュアルコンタクト

別に悩み事はないけど日記の内容などの質問があるんあだけどという方でもかまいません

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