幸せと至福の違い(有色と無色)

(昨日の続きです)

すべての色は無色から現れ、現れた色彩は心の成熟によって無色に戻されていきます

つまり、色即是空です

人は、空即是色(色を生み)、色即是空(空に戻る)を行う変換器です


一つ一つの色は個性であり喜怒哀楽です

色の中に自分にとっての幸せの色を見つけることができるでしょう

一方で、あまり好きではない幸せと反対の色を避けることができないのも事実


しかし無色は喜怒哀楽を超えた至福です

つまり「ある」だけがある状態です


有色=人生
無色=悟り

と言い換えられます

有色と無色には同じ光の性質を持ちながら次元の違いがあります

これが幸せと至福の違いになります




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何かを引くと愛が残る

(昨日の続きです)

本当の相手に出会った時、自分は反応の起こらない沈黙の中にある

なんとも言えないせつなさがあります

日常生活の中で似たようなことが起こっています

相手が目の前にいない時に、相手がとても大切に感じる

そんなことはありませんか?

そんな感じをイメージすると昨日のジョーイの話は理解しやすくなるのではないでしょうか?

何かの不在が、エゴの不在に繋がる

何かを引くと愛が残る

Two Hats -気づく、ただそれだけ(後編 ナイナイ野郎の一撃)- 

7月2日の記事の結末は、完璧なまでのちゃぶ台返し!

非二元には取り付く島がない。話し合おうという気持ちもない!情状酌量というやさしい心がない!まったくない!

いやそもそも非二元には心が存在していないのか、、、

クッソ、非二元の世界には自分(マインド)の入り込む余地がない!

いくら非二元の門を叩こうとも、その門が開らかれることはない!

仕舞いには門番から「あなたはいない!」とまで言われる

「マインド様を馬鹿にするなよナイナイ野郎!」


肩を落として、とぼとぼと家路につくマインドの目に夕焼けの光が目にしみる

そのとき、ため息とともにポツリと一言、「わかっくれよー。ちょっとでいいんだ」

すると突然響く声、

(非二元)「わかってあげたら、あなたは消えるよ。それでもわかってほしい?」

(マその1)「えっ、わかっちゃったら?消える?いまここで? 今すぐだとちょっと困るなー。まだ夕飯済ませてないし、それからいくつか果たさなければいけない約束があるし。消してほしいけど、、、いまはちょっと、、、3日後の同じ時間にここに来ます」(彼が戻ってくることはなかった。。。。)

(マその2)「消えても結構です。何が消えるのかを私は見たい」



((マその1)の人はここから先を読んではいけない

非二元(以下、親しみをこめて「ナイナイ野郎」、でも99,もしくはNN様とは何の関係もありません)は、妥協してくれません

ナイナイ野郎の妥協のなさは、禅の警策(喝を入れる棒)のような威力があります

手を変え品を変え質問しても、「ピッし」とすべては否定されます

一枚一枚はがされ、段々と隠していた自我が丸裸にされていきます

段々と裸にされていくと、今度は自分でも何が問題だったかわからなくなって行きます

問題そのものよりも、問題に対する執着の方が強かったのだと気が付きます

そして、問題のちっぽけさを感じたときに、ナイナイ野郎との質疑応答は感謝で終わります

途中腹も立つこともありますが、でも最後に残るのは、大自然に出会ったような爽やかさです

悔しいけどナイナイ野郎には一本取られた、そんな感じです


大自然、この地球上には870万種以上の生物が存在します

これだけの生物が独立して、かつ共存を意識することなく存在していながら、一つの地球というシステムとして成り立っています

いったいどれほどの調和の作用が起こっているのでしょうか?! まさにミラクルです

人は大自然に出会った時その雄大さかつ美しいな姿に感動し、ちっぽけな自分に気づき、リフレッシュされていきます

大自然も100%あなたを受け入れていますが、それでも、決してあなたのマインドを理解することはありません

でも、その雄大さを知った時、それでいいのだと思います

なぜならマインドなどちっぽけだと思えるからです


そうです

気づかれたと思いますが、ナイナイ野郎=大自然なのです

自然には
 火山噴火、地震、台風、洪水、何が起ころうと良いも悪いもなくただ変化して行きます
 起きている事がただ起きているだけです
 そこには自分というエゴはありません
 時間は存在しません
 あるのは今だけです(自然の歴史を知るのは、時間の感覚を持っている人間だけです)
 そしていつもあなたを受け入れています

人だけが共存を訴えますが、人だけが自然の調和を崩しているのは事実です

人はまだ大自然の完璧さと調和していません

人だけが内なる世界と外の世界の不調和を抱えているからです

内なる世界に入り込み、間違って握りしめたマインドを手放し、消していくその作業が不可欠になる日が、誰にでもいつの日かやってきます

(ここまで読んで、「それが?」という方、期待にこたえられなくて残念・ゴメンorg 続きは読まなくてOK!

後半に入る前に、お断りですがここで話している問題とは、生きることを苦しくするような解決の難しい問題のことです
単純に解決できる日常の問題のことではありません(そういうことは放置しないでちゃっちゃと片付けてください

なぜ、「気づく」それだけで解決になるのか?

どうして、事実を事実と認め、そこに放置するだけでいいのか?

「気づいたなら対策をとる」、これが人としてのそして社会の習い性です

でも、気づいただけで何もしないというのは、人にとっては逆に苦痛なことだと、まず申し上げておきたいと思います

実際のところ、「人は苦痛から目をそらすために何かをし続けている」のがほとんどなのです(自身の実体験に基づく)

「気づくだけ」というのは「何もしないことによって、逆に問題/自我の本質を見る」ということです


「気づくそれだけ」というのは、私自身10年以上にわたる探求を終えた最後の方法です(これからも探究自身は続くかもしれません。なぜならそれが楽しいから)

これはブッタが見つけた瞑想方法であると言われています

ナイナイ野郎のジョーイ・ロットもどうやらこの方法をやったようです


まず、問題に対する向き合い方です

思考は問題を正しく理解していません

思考が出来るのは傷口の上に絆創膏を、何枚も何枚も張り重ねていくだけです

これは風邪薬と同じです。カゼ薬は症状をごまかすだけで、カゼそのものは直せません

アインシュタインは、「いかなる問題も、その問題を生み出した時と同じ意識のレベルでは、その問題は決して解決できない」といっています

マハラジは「自我を自分の中ではなく、自分に対して起こる何か外部の、異質な、あなたの上部に押し重ねられたようなものとして見る時だけ、それを越えることが可能だ」

科学者も悟りのマスターも同じ真理に到達しています

事実を事実と認めるが、違う次元からとらえてみる

問題に対して対策を取らないことで、とりあえず自分を無防備にするということになります


次は、無防備になった時に起こる様々な肉体的な感覚と、思考を見るということです

良い悪いをジャッジせずに起こる/出てくるに任せます

これが問題と違う次元にいるということになります

親が子を見守るような姿勢です


子供が何重にも重ねあわせた絆創膏をはがしていくと、そこには傷はなかったということを発見するでしょう。あったのは、傷ついたという思い込みだけです

マハラジは「マインドによって作り出されたものは、それが真実だと思う限りそれがマインドを支配する。しかし疑われた瞬間それらは消え去る」「偽物は発見された時に消える」といっています

闇は光を当てることによって消えていきます

大切なプロセスです

足し算の法則で解決しようとするのは絆創膏の重ね合わせです

引き算の法則での解決は、一つ一つ重ねあわされたマインドという絆創膏を消していくことです


これが「気づくだけ」ということです

問題を解決しなくても幸せになれる、もしくは問題はなかったということに気づくと、内なる世界と外の世界が調和していきます

これが正-反-合の最後の段階の”合”です

このあと、探求者は消えても探求は続きます

それはサプライズでありミラクルです


追記1:ナイナイ野郎は、一つのマインド(マその2)が消えていったのを静かに見送った。(マその2)に愛を送りながら、その喜怒哀楽をアカシックレコードに記録した

追記2:待っているナイナイ野郎 「ふぁー(マその1)の記録は来世に持ち越しかなー」


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Two Hats -気づく、ただそれだけ(前編)- 

気づきというのはとても繊細です

その繊細さは言葉では伝えられませんが

そっと、時には無言で、交流したときにエネルギーのようなものとして伝わり、同調して行くものです

これをするのがサットサンです

言葉を拾うのではなく、同調させることが大切です

気づきは光の法則、つまり引き算の法則だからです


(正-反-合という人生のサイクル)

(正:誕生)

生まれたときは無垢であり、ワンネスそのものです(非二元と言い換えられます)

そこから旅は始まります

(反:外の世界を学ぶ)

誕生のあと、赤ちゃんは五感があること、そして外の世界があることに気づきはじめます

だんだんこの世界には、さまざまな物理的、化学的、生物的、社会的ルール(生まれる前には存在しなかった因果関係)があることに気づきます

そのルールを知ること、身に着けることは、はじめはとても違和感のあることです

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」「それはうそだ」「そうじゃないもっとこんな風」「知らないのは大人の方」(私の実体験)

しかし、反抗をしても得るものはありません(again 私の実体験)

人の五感の感覚を通して感じた、”生存への危機感”は、強迫観念を伴い、ルールの習得を迫ります

そうすると、もだんだん”生まれてきた源”に対するコネクション薄れて、生まれる前の世界を忘れて行きます

このときに否応なく押し付けられたルールは、後に成長してから、社会に対する適応問題として再浮上することになります。それでも、しばらくの間はそのルールを使って、人生を楽しむ、もしくは、やり過ごして行くことが出来ます

成長するに従い、そのルールを使うことで快適さを生み出せることも知ってきます

勉強、スポーツ、趣味、娯楽、ライフスタイル、飲食、ビジネス、交流、etc

何らかの達成をして行きながら、”達成した物事=自分”というフレームをはめて行きます

もちろん達成されないこともいろいろ出てくるでしょうが、その場合は失敗=自分と定義してしまいます

また「達成の不満」ということも起こってきます

つまり、「達成されたのに満足は長続きしなかった」「より多く、もしくは高いところのものを必要とするようになった」「達成して得られるものが、思っているものと違った」などです

この段階での特徴は、外の世界に対して行動し、外の世界を変えようとしているということです

そうこうしていると、願望達成の近道を見つける人がいます

救世主ジニーの発見です

アラジンのランプの魔人、ジニーは、人の潜在意識を意味しています

潜在意志の力を利用する方法は成功哲学や、引き寄せの法則で、多くの人に支持されています

イメージや願い事を潜在意識に上手に刷り込むととで願望が達成されるといいます

実際のところ、どうして?またどうやって?潜在意識がその願いを達成するのかは、説明及び理解はされていません

しかし、非科学の部分があっても、理由はわからなくても自分に利益だけをもたらしてくれるなら受け入れます

そして多くの人は引き寄せの法則で成功したと報告しています

私自身、成功哲学は30年以上昔ですが、ナポレオンヒルのころにやっていました


(ちゃぶ台返しが迷惑な人はここから先は読んではいけない)

(合:内なる世界に気づく)

実際のところ、引き寄せの法則がうまくいくとは限りません

方法論はしっかりと勉強したのに

そうすると、方法はわかっているんだから、”ジニー(潜在意識)”をうまく働かせていないのだと思いまじめます

そのため、いろいろなヒーラーにあったり、エネルギーワークーをしたりします

このあたりから段々と、達成派(何が何でも達成する)と幸福派(達成の目的は幸せになることだったと思い出す)に分かれてきます

しかし、そんな中、ちゃぶ台をひっくり返すメッセージに出くわします。目標どころか自分の存在そのものを吹き飛ばしてしまいます

 人生は幻想である
 良いも悪いもない
 起きている事がただ起きている
 それを自分がやっていると解釈しているだけ(行動が起こった後に、脳ミソが自分がやったと後付している)
 しかも、本当はそれをやていると思っている自分さえいない


完璧なまでのちゃぶ台返し!

この非二元の理解を、受け入れるか、見なかったことにして今までどおりのやり方を通すか、二つに一つです

最近、非二元の意見は段々と市民権を得ています

非二元から見ると成功法則はどうなるでしょう?

必ずしも一つの答えではないようです

トニー・パーソンズ、ジョーイ・ロットのような、宗教的な背景を持たない最近の非二元論者は、「そもそも成功した当事者などいない」、「単なるストーリー」といいます

立て板に水ですね。「ない」ものは「ない」という感じです

しかし、マハラジは必ずしも否定はしません。彼は強く思うことによってそれは起こる。しかしすべては幻想である。また掴み取った喜びは悲しみという対価で締めくくる、という趣旨のことを言っています

夢のコントロールは可能だ、けれどもそれにどんな意味があるだろう?しかも、築きあげた夢(カルマ)は、必ず解体作業が伴う、という意味です

今日の話は皆さんにとってはおさらいのような内容になったかもしれませんが、長くなりましたので続きはまた明日でも


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Two Hats -深まる「気づき」と広がる「驚き」- 

ここを訪問していただき頂きありがとうございます
ところで、ここを訪問していただく方には猫のブログを書いておられる方が多くいらっしゃいます
飼ってはいませんが私も大の猫好きです。もしかするとブログの文字からマタタビの匂いがもれてますか?
王様のような振舞と、したり顔(悟り顔)、と思っていると非常に愛くるしいという。その上、瞑想?(お昼ね)大好き。まさに「宇宙のパラドックス」の一つです
だからでしょうか、古代エジプト人は猫を神として崇拝していました

(いつもの話に戻ります)
内なる世界を観照する

これが悟りにつながる気づきをもたらします


ところで、「気づき」という言葉ですが

辞書には「これまで見落としていたことや問題点を知ること」とあります

今まで知っていた物事に対して、違う側面を認識する、もしくはより深いところで理解をするということですね

言い換えるなら、「気づきとは深まる行為」です

気づきが起こると、普段何気なく見ていた景色がとてもきれいに見えるとか、すでに持っていたものの価値を見直すとか、そんなことが起こると思います

味わいが深まるような感じです

昔の理解も間違ってはいないけど、今のこの瞬間のこの感覚はそれとは別」という感じで

しかし、ちょっとした見方の違いで理解、価値観が変わる、そんな「気づき」は他の人から見るとわかりにくい行為です

気づきの経験を人に話してたことありませんか?

そのとき、「それがどうしたの?」的な冷たい反応をされませんでした?

自分の高揚感に対して、さめきている相手を見ると、せっかくの気づきが台無しになった気がしますonz

でもしかたありません、他人には自分の内面で起こった気づきの繊細さが伝わらないんです

なぜなら他人は、その人の理解で物事を見ているからです

他人は(猫のように?)本当に違う世界に生きています

同じような経験をしていない限り、わからなくて当然といったほうが良いでしょう


では「驚き」という言葉と比較してみましょう

驚きとは、新しいものを知ったときのショックです

「えーそうなの、知らなかったー」的な

同じく言い換えるなら、「驚きとは広がる行為」です

ですから、広がった部分の知識は、他人に説明しやすく、また共有しやすいところがあります


知らなかったことを伝えるのは簡単ですが、以前とは違った受け止め方、反応をするようになったというような変化、変容はとても重要にもかかわらず、とても伝えにくいことです

気づきはとても繊細です

「なんか違う」としかいえないような

また、深く深く入っても、広く広くは拡散しない

それゆえ、悟りへの道も説明したりされたり、そしてそれを共有しにくくなります

しかし、積み重ねられた気づきは、不動の姿をとって現れ始めます

次回、「なぜ気づくだけでいいのか?」につづきます


(ちゃぶ台返しが迷惑な人はここから先は読んではいけない)

せっかく、「気づき」と「驚き」の違いを説明したところですが

お互い極めれば通じるということも書いておきたいと思います

例えば、不動に至った「気づき」、もしくは熟成された「気づき」は、「驚き」にも通じます

深く深く掘り下げられた気づききは、まったく予期しない別なところから現れ、結果的に広がりを持った驚きに変わります

違う場所に出くわす驚きが起こったとき、一つの「気づき」のプロセスは完結します

量子力学ではブラックホールに吸い込まれた素粒子は、別な次元(パラレルワールド)のホワイトホールから放出されると考えています

それと同じですね


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